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2014年12月18日木曜日

雨ニモマケズ 風ニモマケズ

雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ…

という宮沢賢治の詩は多くの人に知られている。

この詩を詠んだのは37才の生涯を終える2~3年前である。
その頃、賢治は岩手県一関市の東北砕石工場で技師として働いていた。

小さい頃から野山を歩きまわって岩石採集をしていた賢治は、
「石っこ賢さん」と呼ばれるほど鉱物に没頭したという。

それだけに東北砕石工場では、石灰を使った農地の改善を研究し、
中和剤として製品化して東京などへ自らセールスに出かけた。

その甲斐あって、以前は農業が始まる春先にしか需要がなかった石灰は
2倍以上の売上げを記録した。


ところが、残念なことにセールスに出向いた東京で病に倒れてしまう。
帰郷して療養生活に入り、その時に書いたのが「雨ニモマケズ」である。

同じ頃、賢治は「グスコーブドリの伝記」という作品を発表する。
この作品では、冷害と干ばつに苦しむ農民を、命を投げ出して救おうとする
ブドリという青年が描かれている。

作品の最後にこんなシーンが出てくる。

 ブドリが二十七の年、恐ろしい寒い気候がまた来るようでした。
 ブドリは大博士を訪ねました。
「カルボナード火山島を噴かせられないでしょうか。」
「できるが、仕事に行った最後の一人はどうしても遁げられない。」


遁げられない最後の一人は、まさに農村の生活向上に力を尽くし
病の床にある賢治そのものであると言っていいのかもしれない。

詩人であり、土に生きた農を愛する人だった宮沢賢治の想いを伝え、
彼の魂の輝きが宿る砕石工場の往時を偲ぶことができるのが、
一関市東山町にある「石と賢治のミュージアム」である。

http://www.city.ichinoseki.iwate.jp/index.cfm/6,0,149,html
石と賢治のミュージアム

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