軽い車だから、軽自動車のことかなと思う方がほどんどであろう。
軽carは車にはちがいないが、人力で荷物を運ぶリアカーである。
リアカーといえば鋼鉄製で重く、女性や子どもでは使いこなすのに難儀する。
ところが、軽carは13㎏と軽く、車体はシンプルで、
20インチのノーパンクタイヤが装着されている。
実際に使ったおばちゃんが「軽かもんですから…」と開口一番口にした。
この軽carを開発したのは長崎県南島原市にある中村輪業の中村耕一社長。
中村社長は工業系の大学を卒業し自動車ディラーのメカニックとして
働いていたが、実家の自転車店を継ぐために帰郷。
しかし、過疎と高齢化が進む故郷では自転車店の将来像が描けず廃業。
廃業後、再度会社への就職をめざして試験を受けるが不採用の連続。
落胆しながら目の前の海をぼ~っと眺めていたある日。
知り合いのおばあちゃんがゴミ袋を積んだ一輪車を押しているが、
ヨタヨタして危なっかしい。
リヤカーで運べばと声をかけたところ、「リヤカーは重たい」との返事、
そこで中村社長の技術屋魂がそう言わせたのか「オイがつくってやるけん」。
その日からリヤカーの構造や鋼材について猛勉強し、何百回も失敗し、
専門家に教えを乞うなどして試作に明け暮れ、ようやく完成した。
おばあちゃんのもとに試作品を届け、実際に使ってもらうと
「軽か~」と、すっかり気に入ってくれた。
ヨシ!軽carでいこうと販売に乗り出すが、何のツテもない。
中村社長は軽トラに軽carを積んで朝の6時から夜中の3時頃まで、
日曜も祭日もなく、あてもなく長崎県内を回ったという。
昼間は畑や港で農産物や魚を運んでいる人たちに軽carを見てもらい、
夕方くらいから飲食店をまわり、お店にチラシを貼らせてもらった。
そして極めつけは長崎ランタンフェスティバル。
冬の長崎の街を彩る祭りの会場を、軽carに3人の子供を乗せて引いた。
そうした努力が実って、半年くらいして第一号を受注することになる。
その後、大手運送会社からの大口発注などもあり軌道に乗ったかに思えたが、
東日本大震災によって注文がキャンセルされ会社存続の危機が訪れる。
しかし、苦境に立った時も中村社長は被災地へ30台の軽carを寄贈する。
発注をキャンセルした取引先を責めるのではなく、自分の経営の甘さを痛感し、
ひとまわりも、ふたまわりも成長して現在に至っている。
開発・生産の拠点はあくまでも地元、決してブレない信念を持って、
軽carは軽やかに、力強く、大地を踏みしめて明日へと進んでいく。
http://nakamuraringyo.com/
株式会社 中村輪業
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